我が町香椎の歴史散歩

 

  1.かしい歴史散歩

      香椎宮ってなあに?!      篠崎芙美枝

 皆さんは自分たちの住んでいる香椎をどれくらいご存じですか? 
 今回は、わが町香椎を子供達と散策してみることにしました。
 皆さんもご一緒にどうぞ!

    子供達:長男の裕介 次男の陽介 長女のまゆみ

裕介「香椎宮のグランドや境内は、皆の遊び場だけど、お宮のこと僕   
   たちは良く知らないよね。香椎宮ってなあに?」

 「お父さんが子供の頃、君たちの香椎東学校付近は香椎宮の裏山   
   で、マラソンコースとして良く走ったものさ。それに君たちと   
   同じ年頃には探検ごっこをして遊んだ所だった。香椎宮の話も   
   いろいろとおじいちゃんにしてもらいながら、よく一緒に散歩   
   したんだよ。」

陽介「じゃあ、子供の頃にお父さんとおじいちゃんが歩いた所を僕た   
   ちも歩いててみようよ。」
   ということで、さっそく香椎宮周辺を散歩することにした。

  まず、古宮からスタート!

・.古宮と棺掛椎(かんかけしい)

 西暦391年頃のこと、第14代仲哀天皇が新羅(現在の朝鮮半島
 の南部)遠征のために本陣を置かれたのが古宮跡、急死された
 天皇の棺を本陣の椎の木にかけておいたところ、四方に異香を
 放ったので、以来香椎の地名がついたと言われている。

陽介「ずいぶん昔の話なんだね。それにしては細い木だよね。」

 「その時の椎の木は今はないんだよ。残った木の株から、
   新芽が出て成長したのが今の椎の木なんだよ。」

  古宮から山手に向かって歩いた。

・.不老水と武内宿禰

 仲哀天応に使えた大臣、武内宿禰が掘った井戸がある。
 その水を飲んで武内宿禰は300歳まで生きたという言い伝え
 があり、不老水(日本名水100選)として家屋敷と共に残って
 いる。

裕介「僕たちも長生きできるようにたくさん飲んでいこうよ!」

 「大勢の人が毎日たくさん汲んでいくので、今井戸が枯れ
   かけているんだよ。皆で大切にしていきたいね。」

  この不老水からさらに奥に進むと大槙の木がある。

・.大槙の木

 古宮の棺掛椎に掛けられた仲哀天皇の棺を造ったと言われる
 槙の木である。

 「その時すでに樹齢2600年の大木で、それから今日まで
   1600年ぐらいは過ぎているだろう。それで樹齢4200年と
   言われているわけだ。」

裕介「周囲6.3mもあるから僕とお父さんが手をつないでもとど
   かないね。」
  そこから引き返して香椎宮の本殿へ。

・.香椎宮と綾杉

 神功皇后は、急死された仲哀天皇の身代わりに、男装して
 新羅遠征に出かけた。無事帰征された皇后は剣と鉾と杖を
 土に埋め、袖につけていた杉を現在の香椎宮桜門前に植え
 られた。

 「その杉が大きく成長してこの綾杉になったんだよ。」

 杉の葉が細かく分かれて綾のように重なりあっているところ
 から綾杉の名がついた。
 神功皇后は大和へ帰還後、古宮で亡くなられた仲哀天皇の
 神霊を祭るために建てられたのが香椎宮の起源とされている。
 西暦723年には、皇后自身の宮も造営された。

 香椎宮は香椎廟とも呼ばれ、特別に格式の高い神社で、奈良
 時代より勅使が遣わされた旧官幣大社である。本殿は香椎造り
 と呼ばれ、重要文化財に指定されている日本で唯一の珍しい造
 りの神社である。

陽介「でもそんなに古い建物に見えないけどなあ!?」

 「昔に建てられた本殿は、豊臣秀吉の時代に焼かれてし
   まってね1801年、黒田藩の殿様によって元通りに造りな
   おされたんだよ。」
  社務所の中には、資料館もあるので、一度覗いてみると
  なかなか面白い。

・.参道と楠並木

 香椎宮をあとにして、勅使道と呼ばれる参道に出た。お宮から
 鹿児島本線踏切まで楠の並木が続く。

 「この楠の木、何本あるか知ってるかい?」

まゆみ「知らない。でもずいぶんたくさんあるんだね。」

 この木が植えられたのは、昭和元年で165本あった。すべての
 楠木はいろんな団体からの寄付されたものです。直径15cm、
 高さ3mと定められていたんだよ。」

まゆみ「それなら、どの木も同じ大きさじゃないの?小さい木も
    あるよ。」

「70年の間に、枯れたり折れたりしたのもあるからねえ。
  今何本あるか数えてみようか?」

まゆみ「1本、2本、、、、、全部で145本ぐらいだったよ。」

・.頓宮(とんぐう)

 鹿児島本線まで歩くと、左側に頓宮がある。その昔、鳥居の
 向こうは海で、頓宮から海へ向かって階段が続いていた。
 線路を作るときにこわされ参道の方に新しく道が作られた。
 神宮皇后の遠征時の大行列を偲んで2年毎に大神幸が行われ
 、本殿から頓宮まで笛、太鼓、の古式ゆかしい行列が続く。

、「稚児行列もあるよ。そうそう君も小さい頃おじいちゃん
   に連れられて参加したことがあるよ。」

裕介「僕も覚えてるよ。楽しかったよ。」

 「線路の向こうには、まだまだたくさんの神宮皇后にまつ
   わる話があるんだよ。」

・.御島神社、片男佐、鎧坂、かぶと塚、浜男のいわれ

 8月に花火大会があった御島神社(満潮の時には鳥居しか見え
 ない小さな島)は、神宮皇后が髪を海につけて”新羅遠征を
 すべきなら、髪は分かれて二つになれ!”と占ったところ。
 髪が自然に二つに分かれたので、ミズラ(男装)に結い、
 浜辺(片男佐海岸)に渡って来られた。その時頭だけ男装の
 姿だったので半分男という意味で”片男佐”と名付けられた
 といわれている。同じように、鎧をつけて歩いていたところを
 ”よろい坂”、かぶとを着けたところはか”ぶと塚”と呼ばれ
 石碑が建っている。こうして男装に身を固め、仲哀天皇の身代
 わりができあがり、海浜を男姿で威風堂々と歩いたので、
 ”浜男”と呼ばれるようになった。現在は浜男通りという地名
 が残っている。

まゆみ「お父さん、知らないことがいっぱいで本当に面白いね。
    今日は行けなかったけど、きっと今度また線路の向こう
    を散歩しようね。」

 子供達との香椎散歩はいかがでしたか。皆さんもぜひ香椎の町を
 歩いてみて下さい。

 

 

 

普段は緑に囲まれた静かな香椎宮も、お正月には沢山の参拝者で
にぎわいます。本殿の香椎づくりに気づかれたでしょうか?

2.香椎宮の香椎造り

「香椎造り」とは、

・内陣、中陣、外陣にわかれている

・入母屋の屋根、切妻屋根

・すがる破風、千鳥破風

・牛車を横づけしして、地面に足をつけずに本殿に上がれるように、  
 下半分が切れた階段が左右についている。

 

 

3.万葉歌碑

香椎宮から楠の木並木参道を鹿児島本線まで歩くと頓宮があり、
その台地に三条実美(さんじょうさねとみ)の筆による万葉歌碑
がある。 明治21年10月の建設で100年の月日を経たこととなり、
九州の万葉歌碑の中では古いほうに属する。香椎潟は現在埋め立て
工事で、また周囲はビル、家屋、商店が建ち並び、その変貌は著しい。
昭和の初めまでは鹿児島本線の線路の一部は波打ちきわ近くで
あったという。
祖父母の子供時代は、海藻とり、貝掘り、海水浴もできて、香椎川
にはシジミ貝もいたという。
 現在の勅使道は昔は山で、上古の海岸線はこの山裾に沿っていて、
干潮時には香椎から名島にかけて白い磯浜が美しく出現したいたと
言われています。
 頓宮に刻まれている3首の歌は、そのころの香椎潟を歌ったもの
で、万葉仮名のまま楷書体で書かれている。

いざ子ども

香椎の潟に白たへの

袖さへぬれて

朝菜摘みてむ

  師 大伴卿(そち おおとものまへつきみ)

口訳 さあみんな(部下をさす)香椎の潟で着物のまま袖まで
   ぬらし朝食の海藻を摘もうよ。

 

時つ風

吹くべくなりぬ 香椎潟

潮干の浦に

玉藻刈りてな

  大弐 小野老朝臣(だいに おののおゆあそみ)

口訳 満潮になるときに吹く風が吹きそうだ。早く香椎潟の
    潮干の浦で美しい藻を刈ってしまおうよ。

 

行き帰り

常に吾が見し 香椎潟

明日ゆ後には見むよしもなし

  豊前守 宇努首男人(とよくにのみちのくちのかみ うののおびとをひと)

口訳 行き帰りにいつも私が見た香椎潟は、もう明日から後は
   見るすべもないことだ。

この歌は男人が転任することになったので、大伴旅人が香椎宮
参拝に部下を連れていき、その帰り道、香椎潟に足を止め、
めいめいに思いを述べて作った歌である。この他、古今和歌集
の中にも香椎を歌ったものがあり、香椎宮の境内にその碑が
建っている。

 

 

4.浜男神社と兜(かぶと)塚

 頓宮あたりが海岸沿いであったことは、現在の浜男神社が
香椎宮お汐井取り場であったことでもうなずける。この浜男
神社にはかぶと塚にまつわる面白い伝説が残っている。この
塚には二つのかぶとの形をした石が置かれている。1つは1720
年頃、この塚で発見されたものであるが、博多の医師荻野玄庵
が持って帰り庭石にした。もう1つの石は持ち去られた石を惜し
み新宮上の府の源四郎という者が石を刻んで塚に納めたもので
ある。玄庵の死後、その石を墓石にしたところ、一家ことごと
く急死したため、近隣の者がたたりを恐れてお汐井取り場にそ
の石を納めた。それが現在の浜男神社の建っている所である。
昭和の初め埋め立て工事の際に、元の塚に運ばれて、二つ並べ
てまつられた。

 

5.香椎宮と足利尊氏

 香椎宮資料館には、足利尊氏の直筆と言われる領地寄進状や、
刀が残っている。九州に到着した足利尊氏はわずか500人足らず
で息も絶え絶え、鎮西征討どころではなかった。香椎宮で陣を整
え出陣する際、老翁が現れ、香椎宮の神木である綾杉を足利尊氏
の袖にさしはさみ、姿を消した。足利尊氏は「神の化神に違いな
い」と一同大いに気を強くして、多々良浜の合戦に望んだ。おり
しも北風が強く吹き砂を舞い上げて敵の菊池軍は視野を失う。
足利尊氏軍は「神風が吹いた!これは神の助け!」とばかり総攻
撃を開始。さらに敵軍であった松浦水軍の謀反もあって大勝利を
納めた。この合戦における死者をまつった” かぶと塚”が東区
流通センターの一角に残っている。この付近には将軍塚、陣の越
など、足利尊氏にちなむ地名が残されている。九州大学本部正門
前近くに”勝軍地蔵”のお堂がある。庭には古い石碑が並んでい
る(県指定文化財)。堂内には、地蔵仏、不動明王、足利尊氏象
(はっきりしない)が安置されている。

 

最後に、

 最後に、このように歴史深い町に住む私達は、古代より受け
継いだ大事な遺産である歴史を壊すことなく維持し、子供達に
も伝えていかねばならないと強く感じました。
 ほたるの飛びかった香椎川はゴミとヘドロの川になり、貝や
ワカメが採れた片男佐の海岸は砂地さえ見えないほど汚れて魚
も住みにくい海になっています。
 万葉の時代、歌人達が心を動かされた美しい香椎潟をよみが
えらせることは不可能なのかもしれませんが、一人一人の心が
けでできる美しい町づくりを私達は考える時ではないでしょうか。
 書くにあたり、香椎宮や記念碑を管理する方々、地元のご年
長の方々に多大なご協力を頂きました。心より厚くお礼申し上
げます。

 

                     文責 篠崎芙美枝